前回、兵庫区の兵庫七福神巡りを紹介しました。
兵庫七福神巡りをご紹介!
そこで今回も兵庫区の観光コースの紹介です。
今回は清盛七弁天巡りを紹介します。
清盛七辨天の寺社は次の9箇所になっています。
和田神社ー真光寺ー能福寺ー来迎寺ー済鱗寺ー恵林寺ー兵庫厳島神社ー氷室神社ー花隈厳島神社
清盛七辨天と名称に7があるので9箇所?と混乱しましたが、あくまで七つの弁天様と、縁ある2名の偉人をつないだ観光コースになります。
その縁ある寺社を順に紹介します。
和田神社
和田神社は和田宮とも呼ばれている神社で、その由来は1658年まで遡ります。
1658年、大水害のために兵庫県の武庫川の堤防が決壊したことがありました。
そのため岡太神社に祀られていた天御中主大神の神輿が和田岬に流れ着き、その後和田岬では数々の不思議なことが起こったと言われています。
そこで領主の青山幸利の発案で社殿を作る事になりました。
主祭神に天御中主大神を、
相殿に市杵嶋姫大神と蛭子大神を祭り、
そしてその社殿は和田神社と呼ばれ、兵庫の津南浜の総氏神として親しまれたそうです。
このような歴史があるのですが、この和田神社と呼ばれる以前からこの地は古くから蛭子大神が祀られていました。
蛭子大神が淡路島を出て本土に上陸された最初の地で、そこにあった森を『蛭子の森』と呼び神代の昔に蛭子大神が祀られた西摂最古の聖地が和田岬なのです。
古く西宮神社が《産宮参り》と呼びこの地に渡御をされていたのはこの由緒によるものです。
また市杵嶋姫大神は1173年、平清盛が兵庫の港を築港した際に工事が思いのほか進まなかったそうです。
そこで工事の安全と港の繁栄を祈願して安芸の宮島の市杵嶋姫大神に来ていただきました。
天御中主大神
蛭子大神
市杵嶋姫大神
の3神を祀っているのはこういった歴史があるのでした。
また市杵嶋姫大神は兵庫の地に来られた当時、兵庫の7か所をお祀りしたと言われています。
それが現在も続く兵庫七弁天めぐりの元になっています。
和田神社は安全弁天
こちらの弁天様は交通安全で有名な和田神社らしく、安全弁天です。
和田神社へのアクセス
真光寺
真光寺は、もと兵庫輪田の崎島「光明福寺」に創まり、宗祖一遍上人が念仏勧進の全国遊行の旅の途中、この地に立ちより1289年(正応2)8月23日観音堂に於いて臨終しました。
その後兵庫の信者達によって、荼毘(火葬)に付され、霊骨を五輪塔に納められ、お木像を御影堂に祀り、その遺徳を崇めました。
そして二祖真教上人は、伏見天皇に奏して「真光寺」の寺名を拝受し、播州守護職赤松円心より寺領を寄進され、七堂伽藍は荘厳を極め、寺地は三十八町四方に及んだといわれています。
次いで後醍醐天皇より「西月山」の山号を勅賜され、南朝の皇族「尊観法親王」が住持されてからさらに念仏の大道場として繁栄しました。
真光寺は音楽弁天
音楽弁天ということで地元の吹奏楽部の演奏やコンサートが敷地内で行われたりするそうです。
真光寺へのアクセス
能福寺
能福寺の歴史は当時、聡明な青年僧として仏教への情熱から比叡山で修行していた最澄が桓武天皇と出会い、国費を持って当時の中国である唐に留学したのが始まりです。
猛烈な勉学を修めて、遣唐使の船に大唐文化を載せて最澄が帰国した港が、兵庫の大輪田の泊でした。
旅の衣装を解く間もなく兵庫の民の熱烈な求めに応じて釈尊の大乗の教えを説いた最澄は、その庵を自ら能福護国密寺と命名されました。
最澄の日本最初の強化霊場です。
能福寺は清盛くん
くん付けで呼んでいますが平清盛です。
平清盛が亡くなられた後、遺言により遺骨をここ能福寺に埋葬したのが縁とのこと。
能福寺へのアクセス
来迎寺(築島寺)
来迎寺は別名を築島寺とも言い、知っている人からしたらこちらのほうがしっくりくると言われるほど。
というのも、このお寺が建立された経緯を「築島」という名が表しているからです。それは平清盛が日宋貿易の拡大と福原遷都を目的として、当時の兵庫の港である大輪田泊(おおわだのとまり)の修築に取り組んだ時に起きた悲しいエピソードが関係してます。
大輪田泊は日宋貿易の拠点として重要な港でしたが、嵐や高波による被害も多かったと聞きます。
そこで清盛は、嵐の被害を防ぐための人工島である経ヶ島の築造(築島)に着手します。しかし、暴風雨によって竣工直前に2度にわたって破壊されてしまいました。
そこで陰陽博士に占わせて暴風雨を鎮めるために人柱をたてることになりました。
当初、清盛は30人の旅人を捕らえ人柱にしようとしましたが、清盛の小姓であった松王丸が自ら30人の身代わりを申し出て人柱となり、工事は成就したという伝説です。
この松王丸の供養を目的に建立されたのが来迎寺(築島寺)。事実なのか伝説なのかは確かめようがありませんが、築島寺という別名が真実を表しているようにも感じます。
もともとは現在の兵庫駅から東にある三川口という地にあった寺であったとされ湊川の合戦や第二次世界大戦で焼失した。現在はもとの位置からじゃっかん南東の違う場所に再建されています。
来迎寺は松王丸くん
こちらもくん付けで呼んでいますが、由来にかかれてある従者の松王丸があてられています。
縁はみずから30人の身代わりを申し出、人柱となったことです。
来迎寺へのアクセス
済鱗寺
済鱗寺は1493年(明応2年)当時、真誉林光上人が開祖で西連寺と号していました。
海中より出現した阿弥陀仏像を本尊とし、済鱗寺と改名した。第二次世界大戦のおりに本堂含む全てを焼失してしまい、現在は仮の本堂に阿弥陀仏像をお祀りしています。
済鱗寺は勉強弁天
弁財天はもともとインドでも学問・音楽・財福・知恵の徳がある神様とされていますので、ここ済鱗寺ではそのうちの学問をあてがわれています。
済鱗寺へのアクセス
恵林寺(えりんじ)
1346年、十一面観世音菩薩を本尊とする恵林寺は、錦江省文禅師(きんこうしょうぶんぜんじ)が開基で、福原西国三十三ヶ所の第二十八番札所である。境内に「清盛七弁天」の社の1つがあり、その位置が築島の北端だったことから、「波除の弁天」と呼ばれていた。
恵林寺は運動弁天
運動弁天ということでスポーツにかかわる祈願をされる参拝者が多く、有名スポーツ選手も来られたりするそうです。あいにく私は今までお会いすることは叶いませんでしたが。
恵林寺へのアクセス
兵庫厳島神社
兵庫厳島神社は1180年、平清盛によって建立されました。
清盛公はかつて安芸守に命ぜられた時より、厳島明神を深く信仰したとのこと。そして都を京都から福原に移した際に厳島明神を安芸国より勧請されたそうです。
この兵庫厳島神社の縁によると、清盛公が兵庫の港に築島を築こうとした時、ある夜の夢に天女が現れ、
「私は安芸国厳島明神である。この海を暴風雨から守り、汝の志しを能く成就せしめんが為に来たのである。篤く信仰して必ず疑うことなかれ」
と告げられました。
清盛公は深く喜び、兵庫の守り神として明神を祀ることにしました。
兵庫厳島神社はお洒落弁天
お洒落弁天だからか、入り口の鳥居の美しさは目を見張るものがあります。
また春先だと桜が見事に先開き鳥居の朱の色と桜の花びらのコントラストがたいへん有名なスポットです。
兵庫厳島神社へのアクセス
氷室神社
氷室神社の創立年月日は詳らかではありませんが、神社の鎮座する夢野の地は元来、禁野といい、昔、高責な方の墓所、皇室の御料地としての殺生禁断の地でした。
仲哀天皇の時代(西暦200年頃)に、香坂皇子、忍熊皇子は、ご自分が位に継ぐことをお考えになり、この地で狩りを行って占いました。しかし1日中何も捕まえる事が出来ず、香坂皇子は猪に襲われて亡くなってしまいました。そしてこの地に墳墓が築かれました。仁徳天皇の時代(西暦374年)に、兄の額田大中彦皇子がこの地に狩りに来られた時に氷室があるのを見付けられ、その氷室に納められた氷を、毎年、天皇に献上される様になりました。
平安時代、平清盛が広島厳島神社より市杵島比売命を奉斎しました。
また後述するように恋愛スポットとして有名になった背景には清盛の甥、平通盛と死別した妻の小宰相が夫を想い後を追ったという悲恋の歴史が合ったようですね。
氷室神社は恋愛弁天
氷室神社といえば恋愛!言われるほど縁結びのパワースポットとして有名です。
有名すぎてオカルトな噂さえあるほど。
噂の信憑性は不明ですが、それほど強い恋愛の神様なら本当に強く願っている人からしたらこれほど心強い神社はありませんね。
氷室神社へのアクセス
花隈厳島神社
花隈厳島神社は平清盛が兵庫の地に経ケ島(現在の兵庫港)を築造するにあたり勧請した厳島神社七社のうちの一社と伝わります。
当初は、花隈村清水の地にあったが、花隈城が築城される際に生田神社の境内に遷された。
江戸時代中期に六甲山から神戸港に注ぐ宇治川の河口付近に遷座され、通称「浜の弁天」はこれに由来するとのこと。
明治初期の神戸港建設において、現在の堺町通6丁目に移転し、宇治川と国道2号線の交わるあたりに弁天町の地名が残るのは、その名残だそう。
昭和21年(1946年)頃、その地に神戸中央郵便局建設されることになり、現在地へと遷座されました。
その時代によって壊されることなく残されるのは大切にされてきた証拠でしょうね。
花隈厳島神社は健康弁天
ご利益に美容健康とあるように健康弁天があてがわれています。
花隈厳島神社へのアクセス
花隈厳島神社は私が以前行った際は清盛七弁天の看板もありましたが、現在はなくなっているかもしれません。
一応、地図を貼っておきます。
さいごに。清盛七弁天巡りとは?
当時、兵庫の港は、大輪田の泊と呼ばれた昔から天然の良港として知られ、平清盛はこれを改良し、更に便利な港として外国との貿易を盛んにし、国の経済の発展を図ろうと兵庫に築島(経ヶ島)を築きました。
承安4年(1180年)に清盛は安芸国の厳島神社勧請し、このとき宮島にある七つの海岸にちなみ、兵庫に七つの辨財天をお祀りしたのが事の始まりです。
それから時は流れて、今もなお観光地として多くの参拝者が往来するようになった兵庫の地域をぜひ散策してみてはいかがでしょうか。
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